泣いて馬謖を斬る

泣いて馬謖を斬る』(ないてばしょくをきる、: 揮淚斬馬謖、「涙を揮って馬謖を斬る」とも)とは、中国三国時代諸葛亮が日ごろ重用していた配下の馬謖が命に従わずに大敗したために、泣いて斬罪に処した(あるいは泣きながら斬罪を命じた)という「蜀志」馬謖伝の故事から、規律を保つために、たとえ愛する者であっても、違反者は厳しく処分することのたとえ、である。(wikipedeaより)

今朝、あるメールを出しました。

施設の利用をお断りする連絡です。

ここでは、詳細を挙げることができませんが、「地域の居場所作り」活動を行っている私たちにとっては、とても心苦しいお知らせを出すことになりました。

幾晩も悩み、何度も議論した上での辛い結論でした。

そこには、利用する、もしくは居場所を求める人たち一人一人に寄り添い、居場所を提供していくという、活動の根幹にも関わる課題がありました。

すでにご縁のつながっている方をどうするか、活動に共感して運営を手伝ってくださっているみなさんをどうするか、利用をお断りした方は、今後どうなるのか・・・・など、「これから」を考えると、難しい問題でした。

でも、私たちは「お断りする」という結論を出しました。

そこに至った大きな理由は、先ずは、運営をサポートしてくれる方を含む、現在ご縁のある方を大切にするということでした。

なぜなら、「現在」を大切にして、一歩一歩を積み上げていく先にこそ、私たちの未来はあると思ったからです。

確かに理念は大切ですが、その理念は今歩いている道の先に見えるもので、決して空に浮かんでいるものではないと思います。

これからも、「今」を大切にするために、辛い決断をしなければならない時があることでしょう。

その時に、見返すことができるように、今回の心の痛みをブログとして記録に留めておきたいと思います。

草抜き

てらこや新都心では、年に数回、シルバー人材センターに、庭に生えてきた雑草の草抜きをお願いしています。

そこそこの広さのある敷地ですので、とても助かる上に、お歳を召されても何らかの形で仕事をしたい、社会と繋がりたいという皆様の支援のお手伝いという気持ちもありましたが。

昨年は、子どもたちが四葉のクローバーを探したり、花を積んだりと楽しい体験のできる遊び場だったクローバーのエリアをごっそりと抜いて、更地にされたことがありました。

その結果に、悲しい思いをすると共に、子どもたちの残念がる声も耳にしました。

お年寄りにとってクローバーは雑草だという見方もあるのかと思い、後でそっとクローバーの種をその場所に蒔きました。

今年は、遊具があり子どもたちが元気に遊ぶエリアの片隅に地植えしたアナベル(西洋アジサイ)がバッサリ刈られていました。
前日に、花芽が出かかって、あと1ヶ月もすると上品な白いアジサイを子どもたちが楽しめると思った矢先の出来事でした。

周りに杭を打ち、割れた火鉢を置いて、子どもたちに踏まれないようにして、育てていたものです。
なぜ、この株を「雑草」と判断して刈り取ったのか・・・・
そのみずみずしい切り口を見ながら呆然としました。

私たちは、このてらこやに色々な形で「想い」を注ぎ込みながら運営しています。
それはその「想い」がこの場所を必要としている方に、癒しの波となってきっと伝わると信じているからです。

今回は、その「想い」も一緒に刈り取られたかのような、残念な出来事でした。

潮時

てらこや新都心の活動を続けて10年、様々な方との出会いや別れがありました。

そんな中で感じることは、人とのつながりの不思議さです。

私たちは人間関係を作る、改善するなどといい、人との繋がりをコントロールすることができるかのような言い方をする時があります。
確かに、自分自身の努力でそうしたことができることもあるでしょう。

ただ、私が今思うのは、もっと深い関係、いわば「ご縁」のようなものです。

特に最近は、そのようなご縁の不思議さ、大きな力を感じることが増えてきました。
それは、まるで私たちがこの10年間、てらこや新都心に想いを注ぎ込んできた結果として、てらこや新都心が独自のパワーを得たかのようです。

そのような「ご縁」を感じる時、ただただ、ありがたいと思います。

そして、その「ご縁」は、まるで大きな流れや潮の満ち引きのように大きなパワーを持って、うねり、流れているように思います。

昔の船乗りは、潮の状態を見極めて、船を出しました。
自然の大きな力を受け入れ、その力に寄り添うような決断をしていました。
それを「潮時」といいます。
今は、「潮時」とは物事を止める、撤退する意味で使うことが多くなりましたが、本来は、船出や物事を始めるベストのタイミングのことでした。

私たちの感じている「ご縁」も、私たちの想いと大きな力が作り出す「潮時」が一致したときに与えられるものだと思います。

先日も、ぜひご縁をいただきたいある方とお話をいたしました。

私たちの思いは十分お伝えしたと思います。
あとは、潮が満ちてくる「潮時」をお待ちするだけです。

「ご縁」がいただけるかどうかは、私たちを運んでいる大きなうねりや、流れ次第だと思っています。

願わくば、てらこや新都心に満たされているパワーが、その方に届きますように。

そして、すでにいただいている「ご縁」も大切に守り育てていきたいと思います。

10年間紡いだ縁(えにし)

てらこやに出入する皆様から、次々と卒園、卒業、進学のご報告が入ってきて、子供達の成長をとても感慨深く思う季節です。 卒業式が終わって声をかけてくれる子、進学した学校の制服を着て見せに来てくれる子。 てらこやを立ち上げて10年の歳月は私には、あっという間でしたが、思えば、0歳の子が10歳に、10歳の子でしたら成人するわけですから、人の世の流れ、人生の重みを感じます。 最近は、新しくできたマンションにお住まいの参加者が増えていますが、そうでなく古くから地元にお住まいの方の会員さんもいます。 先日、カフェのスタッフに応募してくださった方は、私の子供が幼稚園生だった時に教育実習生として勉強中の先生でした。 その方も既にお二人のお子様を育てているお母様でした。 また、子供ラボの新たな会員になりたいとおいでくださった方は、私の父の代からお付き合いをいただいていた方のお孫さんのお子さんでした。 こうして、近隣で3代に渡り縁が続いていくということの感激もまた本当にありがたく、てらこやは守られている場であることに感謝せずにはいられません。 そんな感激を胸いっぱいに受けながら、今後もさらにてらこやでの活動に精進したいと思います。 新たな、子どもの見守りスタッフも増え、私たちも子ども達に負けないよう学び続けたいと思う、今日この頃です。

ぼくの夢

先日、子どもラボに参加している男の子とのやり取りです。。

「ぼくね、宝くじが当たったら、てらこやの近くに一軒家を買うんだ。」
「どうして?」
「まず大好きな小学校の子たちに会って遊べるし、てらこやって楽しいから大好きだし、長谷ピー(注:併設の学研教室の先生です)が、詳しくいろんな事を教えてくれるんだよ!」

この子の自宅は、比較的遠い場所で、歩いてくるのはちょっと大変な距離で、近くには学校の友達もあまりいないのでしょう。

今は家の方がお迎えに来てくれるのですが、4月からは自分で来ることになるのです。

てらこやの近くに家を買う・・・・・

子どもらしい夢の話だとは思いますが、てらこやの近くに住みたい、自由にてらこやに来たいという言葉が嬉しいものでした。

私たちの活動は「地域の居場所」を作るということです。

それは、てらこやを中心としたこの地域が、子どもが、そして子育て世代が暮らしやすい、住んでいる皆さんが、優しい眼差しで子どもたちを受け入れる・・・・そういう地域にすることにもつながっていると思っています。

新年にあたって

皆様、明けましておめでとうございます。

皆様、お揃いで穏やかなお正月をお過ごしの事とお喜び申し上げます。

いつも、てらこや新都心の活動にご理解ご協力いただき有り難うございます。

今年は、この挨拶文を書き出してから10年の歳月が過ぎていることに気がつきました。その間、沢山の方々に携わっていただきました。様々な形で、てらこやは支えられて今があります。てらこやに流れる気が好きだと仰ってくださり、日々の活動を支えてくださるサポーターの皆さん、お母さんたち、本当に有り難うございます。皆さんとのやり取りや、何より元気なお子たちの日々の成長のお手伝いができることが、私たちの何よりの喜びです。

今年一年も、引き続きどうぞよろしくお願い致します。

皆様のこの一年が、愛と平和に満ちた年でありますように…

お守り

「お守り」をいただきました。
とあるお寺さんで授かったものを、お土産としてくださったものです。

以前にも記した通り、てらこや新都心は特定の宗教をお勧めするようなことは致しておりません。

また、お守りはそれを信じない人にとっては、ただの袋に入った紙や木片に過ぎないのかもしれません。

でも、そのお守り袋の面に織り込んである様々な願い(例えば「家内安全」、「学業成就」、「商売繁盛」、「縁結び」などなど)を思うと、そのお守りをくださった方のわたしを気にかけてくださるお気持ちが、その小さな布の袋に込められているのは間違いありません。

そう考えると、いただいた「お守り」は、くださった方の思いを伝えるメッセージであることに、思い当たりました。

思いを込めてお渡しする小さな袋だったのです。

そのお気持ちを受け取り、大切に身につけていたいと思います。

てらこやに出入りする方々に、時として私たちの思いをどう伝えたらいいのか、迷う時もありますが、こんな素敵な伝え方もあるのですね。

*写真の「お守り」は実際にいただいたものではありません。

祈りについて

短い期間でしたが、少しお休みをとって家族と古都を旅してきました。

大小様々な「祈りの場」では、多くの人たちがそれぞれの形で自分の「思い」と向き合っていました。

私自身は、何か熱心な宗教の信者ではありませんし、そのようなものをてらこや新都心に持ち込み、広める気持ちもありません。

ただ、自分の中の大切な価値観の一つとして、持っていたいとは思っています。

その「思い」と向き合って祈る人たちにまじって手を合わせるうちに、その私の「思い」、そして捧げられている「思い」の多くが、「他の人の幸せを祈る」というものだと気づきました。

以前のブログで、てらこやに満ちている「気」について触れたことがあります。

どうやら、その「気」の中身は「他の人の幸せを祈る」ということのようです。

出入りする子どもたちの健やかな成長と、将来の幸せな人生への一歩の手助けになることを願い、子育て世代の皆様には、その貴重な時期が苦労や苦痛だけでなく、楽しさや充実感、子どもの成長を味わうことができる人生の一コマになるように願い、ライフステージが大きく変化することの多い女性にとって、てらこやが人生の「癒しの場」になることを願う・・・・。

そんな場に身を置くことで、その少しのお裾分けとして「充実感」をいただく、そんな場所が私の中での「てらこや」ではないかと思います。

満ちている「気」について

3年ほど前に、てらこや新都心に満ちている(と言われる)「気」についてブログに書いたことがあります。

その「気」は、私たちが目指すものだったり、利用してくださる方が寄せられたコメントだったりします。

ところが最近、運営している私たちも、ふとその「気」を感じることが多くなりました。

それは、どうやら3年目となるコロナ禍の中で、てらこやを運営していく上での制限、自主規制からくるストレスを解放するために開催した「てらこや縁日」の頃から始まり、人数を制限しながら始めた親子での会食「てらこや食堂(ハロウィーンイベント)」、そして、開催方法を吟味しながら復活を果たした「てらこや収穫祭」と、だんだん強くなってきているようです。

それは、何か温かい、心がホッとして、落ち着くような気持ちです。

てらこやで過ごす子どもたちや、大人たちを迎え入れ、慌ただしく対応に追われる毎日ですが、人の流れがひと段落して事務室にちょっと腰を下ろす時に、そんな「気」を感じます。

これが「居場所」であることを実感するということでしょうか?

そして、そんな時間にふと思ったことは、その「気」は、流れているものではなくて、運営する私たちが「発散しているものではないか?」ということです。

てらこやの運営方針に賛同し、共感し、運営のサポートをしてくれる、そんな人たちの暖かい心のつながりから発散されているものかもしれません。

「おはようございま〜す」、「こんにちは〜」、「あみさぁ〜ん」・・・・
子どもたちは、さまざまな元気な言葉と共に、てらこやに戻ってきます。
そのそれぞれの言葉に「おかえり〜」と答える毎日と、それに続く子どもたちに追いまくられる時間、そしてその合間に訪れる仲間とのホット一息のひととき・・・・

そんな時に感じる「気」は、私たちをも癒してくれます。

そのことが、また新しい「気」を生み出しているのかもしれません。

「自己肯定感」

自己肯定感、この言葉は、てらこや新都を始めたときから活動の基本となるキーワードの一つです。

折に触れて運営スタッフ同士で話題になり、ここにご縁のある方々にもお伝えしてきた言葉です。
子どもたちの居場所作り活動「子どもラボ」でも、子どもたちを受け入れ、見守る時の指針となる言葉です。

自己肯定感とは、簡単にまとめると「自分自身をありのままに、肯定的に受け入れること」といえます
似たような言葉の「自信」は何らかの根拠が必要なのに対して、自己肯定感は「根拠がいらない」ことが特徴です。

つまり、自分がそう思えは良いということですね。

先日のスタッフとの雑談の中でも、そのような話になりました。

どうしたら自己肯定感を育めるか?
まずは、心の鎧を外し、太陽の光を受けること、そして風や雨を自分自身の肌で感じること、そして、上を向くこと・・・・
そんなことのような気がします。

ただ、その「心の鎧を外す」ことは、簡単ではありません。
誰でも、傷つきたくない、自分を守りたいという気持ちはあります。

とはいえ、そのガードを下げることが自分を認め、受け入れる第一歩であるのでしょう。

てらこや新都心は、「ここなら心の鎧を外しても大丈夫」という思いを伝えられる場所にしたいと思ったことでした。