居場所は作るもの?

私たちの活動を紹介するときに、簡単に「地域の居場所作り」ということがよくあります。

この「居場所作り」という言葉は、私たちのような活動をする団体、人たちにとってわかりやすい便利な言葉です。

でも、最近は考えがちょっと変わってきています。

確かに私たちは、毎日てらこやを開き、子どもを含む様々な人たちをお迎えしています。

放課後に遊びに来る子どもたち、ワークショップを主催する人たちとその参加者、シェアオフィスを利用するテナントさん、そして併設のイタリアンレストランを利用する皆様・・・・

そんな中で、私たちがしていることは、ただ「開いてお迎えする」ことで、「居場所を作る」ということとはちょっと違うような気がします。

最近いらした方が、こんなことをおっしゃっていました。

「前を通るたびに、温かい雰囲気がある場所だと感じていました。ある晩、前を通ったら、ほんのり灯もる常夜灯を見て、次の日に、つい来てしまいました。」

私たちは、今はこう考えています。

「居場所は作るものではなく、選ぶもの」

今、私たちがしていることは、必要としている人に「ここがあなたの居場所ですよ」という想いが伝わるように、てらこやを温かい「気」で満たすことです。

きっと、必要な人にはその気持ちが伝わると信じながら・・・・

ワーク・ライブ・バランス

企業戦士、モーレツ社員などの言葉が聞かれなくなって久しくなりました。

今は、ワーク・ライフ・バランスを重視し、仕事ともに自分の時間を大切にする風潮が一般的になっています。

そんな中で、てらこや新都心を運営する私たちも、ワーク・ライフ・バランスについて考えることがあります。

ただその内容は、一般的に言われているものとはちょっと違うような気がします。

つまり、ワーク(=仕事)とライフ(=自分の時間)を対立、調和させるための二つのものという区分けができないのです。

私たち、てらこや運営スタッフがよくいうものの見方である、多くのことがはっきりした境目で区切られるのではなく、グラデーションのように穏やかに別の領域に移っていくという感覚です。

私たちは、平日はほぼ毎日てらこやに通い、居場所を開き、たくさんの子どもたちを含む様々な人に会い、必要な事務処理を行い、1日の多くの時間をそこで過ごす以外にも、早朝やてらこやから帰宅した後なども、てらこやのことを考え、必要な作業をしています。

もし、てらこやの活動を仕事として捉えるなら、私たちは立派なワーカホリックです。

でも、私たちはまるで息をするように、てらこやでの日常を過ごしています。

仕事というよりも、人生の一部として、てらこやでの時間を過ごしているという感覚です。

その時間は、心が平穏なものであり、充実感あふれるものです。

その時間は、24時間という時間の中で他のこととバンランスを取らなければならないものではなく、ちょうど爽やかな風が吹くように何気なく場面が切り替わっていく、そんな1日なのです。

耳を傾ける

てらこや新都心のあるこの辺りは、昔は北足立郡木崎村と呼ばれていました。

今のてらこや新都心は、私が生まれ育った家です。
家の周囲には、林や畑が広がり、セリの採れる清らかな小川が流れる自然あふれる地域でした。

夏の夜には、その小川に舞うホタルの不思議な光に、目を見張っていたものです。

私は、そんな中を春にはレンゲの花を摘み、秋にはくりを拾い、畦道を駆け回りながら大きくなりました。

そのころは、小鳥の声で雨が上がったのを知り、蝉の鳴き声で梅雨が終わったのを知りました。

風の音に耳を傾け、カエルや虫の声に囲まれ、サヤサヤとなる木の葉の音やびっくりするように大きな雷の音など、周囲は様々な種類の自然の息吹にあふれていました。

その、どれもが私にとっては何かを語りかける自然との交流だったのを覚えています。

今は、家が建ち、林が消え、大マンション群ができ、私が小さい頃に周りに溢れていた自然の声もめっきり少なくなりました。

今、てらこやに集う子どもたちは、何に耳を傾けているのでしょう?

いえ、耳を傾けるということがあるのでしょうか?

コロナの様々な規制の中で、お互いのコミュニケーションの機会も十分取れない中で大きくなった子どもたち。

毎日、元気に大声で遊んでいる子どもたちを見ると、耳を傾けることの大切さを思う今日この頃です。

密やかな楽しみ

最近、雨の降っていない朝に、てらこやの庭を訪れるのが、日課になっています。

まだ、ひんやりした夜の空気が残っている庭を「探検」して回るのが楽しみです。

てらこやがまだ静けさに包まれている中に身を置くと、心が安らぎ、ここが私にとっても「居場所」であることを感じることができます。

今の楽しみは、小さな池や睡蓮鉢に咲く睡蓮の花を待つことです。
日々、蕾が上がっているか、膨らんでいるか、見守りながら、ついに開花しているのを見つけるのは、朝の小さな喜びです。

他にも、メダカの赤ちゃんが生まれ、元気に泳いでいる様子を見たり、間違って剪定されてしまったアナベルが、再び枝を伸ばし、その先に小さな花芽がついていることを見つけたり・・・

ここで元気に育っていく子どもたちだけでなく、さまざまな生命が育まれている場所であることを感じるのは、幸せなことです。

これも、私の密やかな「てらこや時間」の楽しみ方です。

泣いて馬謖を斬る

泣いて馬謖を斬る』(ないてばしょくをきる、: 揮淚斬馬謖、「涙を揮って馬謖を斬る」とも)とは、中国三国時代諸葛亮が日ごろ重用していた配下の馬謖が命に従わずに大敗したために、泣いて斬罪に処した(あるいは泣きながら斬罪を命じた)という「蜀志」馬謖伝の故事から、規律を保つために、たとえ愛する者であっても、違反者は厳しく処分することのたとえ、である。(wikipedeaより)

今朝、あるメールを出しました。

施設の利用をお断りする連絡です。

ここでは、詳細を挙げることができませんが、「地域の居場所作り」活動を行っている私たちにとっては、とても心苦しいお知らせを出すことになりました。

幾晩も悩み、何度も議論した上での辛い結論でした。

そこには、利用する、もしくは居場所を求める人たち一人一人に寄り添い、居場所を提供していくという、活動の根幹にも関わる課題がありました。

すでにご縁のつながっている方をどうするか、活動に共感して運営を手伝ってくださっているみなさんをどうするか、利用をお断りした方は、今後どうなるのか・・・・など、「これから」を考えると、難しい問題でした。

でも、私たちは「お断りする」という結論を出しました。

そこに至った大きな理由は、先ずは、運営をサポートしてくれる方を含む、現在ご縁のある方を大切にするということでした。

なぜなら、「現在」を大切にして、一歩一歩を積み上げていく先にこそ、私たちの未来はあると思ったからです。

確かに理念は大切ですが、その理念は今歩いている道の先に見えるもので、決して空に浮かんでいるものではないと思います。

これからも、「今」を大切にするために、辛い決断をしなければならない時があることでしょう。

その時に、見返すことができるように、今回の心の痛みをブログとして記録に留めておきたいと思います。

草抜き

てらこや新都心では、年に数回、シルバー人材センターに、庭に生えてきた雑草の草抜きをお願いしています。

そこそこの広さのある敷地ですので、とても助かる上に、お歳を召されても何らかの形で仕事をしたい、社会と繋がりたいという皆様の支援のお手伝いという気持ちもありましたが。

昨年は、子どもたちが四葉のクローバーを探したり、花を積んだりと楽しい体験のできる遊び場だったクローバーのエリアをごっそりと抜いて、更地にされたことがありました。

その結果に、悲しい思いをすると共に、子どもたちの残念がる声も耳にしました。

お年寄りにとってクローバーは雑草だという見方もあるのかと思い、後でそっとクローバーの種をその場所に蒔きました。

今年は、遊具があり子どもたちが元気に遊ぶエリアの片隅に地植えしたアナベル(西洋アジサイ)がバッサリ刈られていました。
前日に、花芽が出かかって、あと1ヶ月もすると上品な白いアジサイを子どもたちが楽しめると思った矢先の出来事でした。

周りに杭を打ち、割れた火鉢を置いて、子どもたちに踏まれないようにして、育てていたものです。
なぜ、この株を「雑草」と判断して刈り取ったのか・・・・
そのみずみずしい切り口を見ながら呆然としました。

私たちは、このてらこやに色々な形で「想い」を注ぎ込みながら運営しています。
それはその「想い」がこの場所を必要としている方に、癒しの波となってきっと伝わると信じているからです。

今回は、その「想い」も一緒に刈り取られたかのような、残念な出来事でした。

潮時

てらこや新都心の活動を続けて10年、様々な方との出会いや別れがありました。

そんな中で感じることは、人とのつながりの不思議さです。

私たちは人間関係を作る、改善するなどといい、人との繋がりをコントロールすることができるかのような言い方をする時があります。
確かに、自分自身の努力でそうしたことができることもあるでしょう。

ただ、私が今思うのは、もっと深い関係、いわば「ご縁」のようなものです。

特に最近は、そのようなご縁の不思議さ、大きな力を感じることが増えてきました。
それは、まるで私たちがこの10年間、てらこや新都心に想いを注ぎ込んできた結果として、てらこや新都心が独自のパワーを得たかのようです。

そのような「ご縁」を感じる時、ただただ、ありがたいと思います。

そして、その「ご縁」は、まるで大きな流れや潮の満ち引きのように大きなパワーを持って、うねり、流れているように思います。

昔の船乗りは、潮の状態を見極めて、船を出しました。
自然の大きな力を受け入れ、その力に寄り添うような決断をしていました。
それを「潮時」といいます。
今は、「潮時」とは物事を止める、撤退する意味で使うことが多くなりましたが、本来は、船出や物事を始めるベストのタイミングのことでした。

私たちの感じている「ご縁」も、私たちの想いと大きな力が作り出す「潮時」が一致したときに与えられるものだと思います。

先日も、ぜひご縁をいただきたいある方とお話をいたしました。

私たちの思いは十分お伝えしたと思います。
あとは、潮が満ちてくる「潮時」をお待ちするだけです。

「ご縁」がいただけるかどうかは、私たちを運んでいる大きなうねりや、流れ次第だと思っています。

願わくば、てらこや新都心に満たされているパワーが、その方に届きますように。

そして、すでにいただいている「ご縁」も大切に守り育てていきたいと思います。

10年間紡いだ縁(えにし)

てらこやに出入する皆様から、次々と卒園、卒業、進学のご報告が入ってきて、子供達の成長をとても感慨深く思う季節です。 卒業式が終わって声をかけてくれる子、進学した学校の制服を着て見せに来てくれる子。 てらこやを立ち上げて10年の歳月は私には、あっという間でしたが、思えば、0歳の子が10歳に、10歳の子でしたら成人するわけですから、人の世の流れ、人生の重みを感じます。 最近は、新しくできたマンションにお住まいの参加者が増えていますが、そうでなく古くから地元にお住まいの方の会員さんもいます。 先日、カフェのスタッフに応募してくださった方は、私の子供が幼稚園生だった時に教育実習生として勉強中の先生でした。 その方も既にお二人のお子様を育てているお母様でした。 また、子供ラボの新たな会員になりたいとおいでくださった方は、私の父の代からお付き合いをいただいていた方のお孫さんのお子さんでした。 こうして、近隣で3代に渡り縁が続いていくということの感激もまた本当にありがたく、てらこやは守られている場であることに感謝せずにはいられません。 そんな感激を胸いっぱいに受けながら、今後もさらにてらこやでの活動に精進したいと思います。 新たな、子どもの見守りスタッフも増え、私たちも子ども達に負けないよう学び続けたいと思う、今日この頃です。

ぼくの夢

先日、子どもラボに参加している男の子とのやり取りです。。

「ぼくね、宝くじが当たったら、てらこやの近くに一軒家を買うんだ。」
「どうして?」
「まず大好きな小学校の子たちに会って遊べるし、てらこやって楽しいから大好きだし、長谷ピー(注:併設の学研教室の先生です)が、詳しくいろんな事を教えてくれるんだよ!」

この子の自宅は、比較的遠い場所で、歩いてくるのはちょっと大変な距離で、近くには学校の友達もあまりいないのでしょう。

今は家の方がお迎えに来てくれるのですが、4月からは自分で来ることになるのです。

てらこやの近くに家を買う・・・・・

子どもらしい夢の話だとは思いますが、てらこやの近くに住みたい、自由にてらこやに来たいという言葉が嬉しいものでした。

私たちの活動は「地域の居場所」を作るということです。

それは、てらこやを中心としたこの地域が、子どもが、そして子育て世代が暮らしやすい、住んでいる皆さんが、優しい眼差しで子どもたちを受け入れる・・・・そういう地域にすることにもつながっていると思っています。

新年にあたって

皆様、明けましておめでとうございます。

皆様、お揃いで穏やかなお正月をお過ごしの事とお喜び申し上げます。

いつも、てらこや新都心の活動にご理解ご協力いただき有り難うございます。

今年は、この挨拶文を書き出してから10年の歳月が過ぎていることに気がつきました。その間、沢山の方々に携わっていただきました。様々な形で、てらこやは支えられて今があります。てらこやに流れる気が好きだと仰ってくださり、日々の活動を支えてくださるサポーターの皆さん、お母さんたち、本当に有り難うございます。皆さんとのやり取りや、何より元気なお子たちの日々の成長のお手伝いができることが、私たちの何よりの喜びです。

今年一年も、引き続きどうぞよろしくお願い致します。

皆様のこの一年が、愛と平和に満ちた年でありますように…